茗荷谷のカフェでクラヴィコードの響きに耳を欹てる

珈琲と古楽 Vol.2 最も静かな鍵盤楽器、クラヴィコード
茗荷谷の学下コーヒーというカフェでクラヴィコードを聴くという15人限定のコンサート。
学下コーヒー
食べログ:学下コーヒー
当ブログのコアな読者の方ならご存知のとおり、いろいろなご縁から、クラヴィコードという楽器の素晴らしさに開眼したのは割と最近のこと。きっかけはたまたま取り上げたマーシャ・ハジマーコスのクラヴィコードによるハイドンのピアノソナタ集の記事に新潟のクラヴィコード製作者の高橋靖志さんからコメントをいただいたこと。高橋さんの推薦されたデレク・アドラム盤を聴いて、クラヴィコードの深遠な世界を初めて知った次第。以来、クラヴィコードによる演奏は気になって取り上げている次第。
2015/02/05 : ハイドン–ピアノソナタ : キャロル・セラシのクラヴィコードによるXVI:20(ハイドン)
2013/07/21 : ハイドン–ピアノソナタ : ウルリカ・ダヴィッドソンのソナタ集
2013/06/05 : ハイドン–ピアノソナタ : 綿谷優子の初期ソナタ集(クラヴィコード&ハープシコード)
2013/03/02 : ハイドン–ピアノソナタ : キャロル・セラシのフォルテピアノ/クラヴィコードによるソナタ集
2013/01/27 : ハイドン–ピアノソナタ : デレク・アドラムのクラヴィコードによるソナタ集
2012/12/22 : ハイドン–ピアノソナタ : マーシャ・ハジマーコスのクラヴィコードによるソナタ集
ハジマーコス盤のレビューでのコメントのやりとりを見ていただければわかるとおり、今回のコンサートの奏者である筒井一貴さんともご縁があったのでしょう。
クラヴィコードはピアノやフォルテピアノと比較すると極端に音量が低い楽器。多くのアルバムが録音に苦労しており、クラヴィコードのひっそりとした美音が自動車の通過音や暗騒音に紛れて聴こえる録音も少なくありません。このクラヴィコードの美しい音を是非生で聴いてみたいと思っていたところ、たまたまネットでこのコンサートの存在を知り、しかも席は15席限定で残り1席という状態だったので、慌てて予約したという次第。生のクラヴィコードをもしかしたら理想的な環境で聴ける千載一遇のチャンスかもしれないと思ったわけです。
当日は19:30開演のところ開場時間の19:00には駆けつけましたが、着いてみると既にほとんどのお客さんが席でコーヒーを楽しんでいるではありませんか。ちょっと出遅れ感です(笑)。
コンサート会場の学下コーヒーは茗荷谷駅から3分ほどの春日どおり沿いにあるカフェ。オーナーの方によると少し前まで目白の学習院下にあったお店がビルの建て替えにともなって茗荷谷に移り、元の学習院下、「学下」の名前のままやっているとのこと。お店のオーナーも古楽好きとのことで、このような企画となっているとのことでした。
お店の入り口からちょっと奥に入ったところに小部屋のような空間があり、そこにテーブル席がいくつかあるという構えですが、その隅にクラヴィコードが置かれ、まわりの席をコンサート向けに少し動かして、15人入るとちょうどいい感じの空間。白壁にシンプルなインテリアで、まるでハイドンの生家でクラヴィコードを聴くような心境になります。

この日使われた楽器は1763年製Johann Andreas Steinの旅行用クラヴィコードの複製でAlfons Huber & Albrecht Czernin(2002)。演奏前には、この繊細かつ不思議な楽器を皆さんしげしげと見入ってました。
プログラムは次のとおり。
J. S. バッハ:平均律クラヴィーア曲集より 第1巻第1番プレリュード(BWV846)
モーツァルト:アレグロ(K.3)、メヌエット(K.4)、メヌエット(K.5)
モーツァルト:アレグロ(K.9a)
モーツァルト:ヴィレム・ファン・ナッソーの歌による7つの変奏曲(K.25)
J. S. バッハ:リュートまたは鍵盤楽器のためのプレリュード、フーガ、アレグロ(BWV998)
(休憩)
モーツァルト:クラヴィーアのための小品(K.33B)
パッヘルベル:アリエッタと変奏ヘ長調
フィッシャー(Johann Caspar Ferdinand Fischer):組曲集「音楽のパルナス山」より No.3 Melpomene:音楽・叙情詩の女神
まさにこの日のクラヴィコードが使われていた時代の音楽。ほどなく開演時時刻になり、奏者の筒井一貴さんが笑顔で登場。
筒井一貴/HASSEL 古典鍵盤楽器奏者(クラヴィコード/フォルテピアノ/チェンバロ)
筒井さんが、作品のことをお話しされて演奏するという、コンサートというよりはまさにサロンで演奏を楽しむという、クラヴィコードの時代のスタイルのような進行。クラヴィコードが最も静かな鍵盤楽器と呼ばれるように、最初にさらりと奏でられた音は、アルバムのみでクラヴィコードを聴いていた私の想像よりもかなり小さなものでした。まさに人が静かにしゃべる声と同じ程度の音。1曲目はバッハの平均律クラヴィーア曲集の冒頭の1曲。馴染みのメロディーですが、まだ耳が慣れないのか、身を乗り出して耳を澄ませて繊細な音色を聴きます。実は最初の1曲の印象はやはりか細いなかの繊細な音色という感じだったのですが、これが曲が進むにつれて、実にニュアンス豊かに聴こえるようになってきます。ちょうど暗い部屋に入ったときにはよく見えないのですが、目が慣れると暗さのなかにも陰影がくっきりついて見えてくる感じ。そう、バッハの曲は耳ならしという意図で配置されていたのでしょう。最初の曲が終わると15人の拍手がクラヴィコードの音以上にカフェに響きわたりますが、曲が進むにつれて拍手も小さな音になります(笑) これは皆さんがクラヴィコードの音に耳があってきたからということでしょう。
そして、続くモーツァルトの幼少時代の曲が何曲か続きます。作曲の背景や曲の成り立ちについてのとてもわかりやすい話に続いて、モーツァルトの天真爛漫なメロディーが奏でられますが、ケッヘル番号の1桁台ということで、1曲ごとにどんどんひらめきが加わり、モーツァルトの才能が急激に開花するようすが手に取るようにわかります。耳がなれて、クラヴィコードの繊細なニュアンスを伴った音楽に引き込まれます。すぐ外は春日通りということで、もちろん車の通る音も聞こえるのですが、お客さんはクラヴィコードの繊細な音色に集中しているので、ほとんど気になりません。小さな部屋で耳を澄ましてひっそりと音楽を楽しむ至福の時間とはこのことでしょう。
前半は小曲が中心で、前半の最後はバッハ。それまでのモーツァルトがクラヴィコードから閃きの進化を聞かせたのに対し、普段はハープシコードでの印象の強いバッハでは、バッハの音楽から華やかな音色という飾りを取り去った素朴な姿を想起させます。静かに耳を澄ませて聴くバッハの音階。静寂に潜む空気のようなものに触れたような気持ちになりました。演奏を終えて静かな拍手に笑顔で応えた筒井さんでした。
休憩を挟んで後半はモーツァルトから。最初の曲はもともと管楽器による演奏をイメージして書かれた曲。筒井さんの説明に従って、これまでの速い曲調ではなく、ゆったりとした曲調の曲を脳内で管楽器の音色を想像して聴いてみると、まさに楽器としてのクラヴィコードの優れた点がわかりました。
クラヴィコードは鍵盤を打鍵すると張られた弦の中央部を下から金属で「押して」その両側の弦が振動して音が鳴る仕組み。鍵盤を打鍵している間だけ音がなり、打鍵している鍵盤を抑える指に弦の振動がつたわってきます。以前クラヴィコードはヴィブラートがかけられると聞き、いったいどういうことなのか想像できなかったんですが、実際に楽器を目の前にして、自身で打鍵してみて初めて仕組みがわかりました。
このようなクラヴィコードだからこそ、管楽器の曲をイメージして演奏できるというわけです。このころの作曲家がクラヴィコードを愛用していた理由もなんとなくわかりました。
続いて演奏されたパッヘルベルのアリエッタと変奏曲。この曲はオルガンのための曲ですが、今度はオルガン用の曲をクラヴィコードで楽しみます。このパッヘルベル、素晴らしかったです。前曲同様、クラヴィコードの音色を聴きながら、オルガンの音色を想像して音楽を楽しみます。最初のテーマから次々と変奏がつづき、耳は完全にクラヴィコードの繊細な響きの変化のレンジに一体化して、デリケートに変化するメロディと音楽に引き込まれます。体を揺らしながら次々に変奏を繰り出す筒井さんの演奏に、カフェの小空間は完全に引き込まれました。カノンばかりが有名なパッヘルベルですが、このアリエッタと変奏曲はいいですね。特にこの日のクラヴィコードの演奏は絶品でした。筒井さんも満足そうに笑顔で暖かく静かな拍手に応えていました。
最後は大バッハがその作品を研究して、影響を受けたと言われるフィッシャーの曲。パッヘルベルに比べて明るく鮮やかなメロディーが織り込まれた組曲。曲が進むにつれて筒井さんのタッチも鮮やかになり、こちらも引き込まれる本格的な演奏。皆さん最初の曲の時とは異なり、クラヴィコードの音量と音色に完全にフォーカスが合って、音楽を楽しまれていました。

最後も拍手につつまれ、アンコールで弾かれたのはモーツァルトのグラスハーモニカのためのアダージョ(K.617a)。いやいやクラヴィコードは想像力を掻き立てられます。この曲では天上から振り注ぐようなグラスハーモニカの繊細な音色を想像させます。

いやいやいいコンサートでした。クラヴィコードを楽しむには絶好の規模。カフェの一室がバッハ、モーツァルト、ハイドンの時代にタイムスリップしたようでした。やはり生で聴くクラヴィコードは素晴らしいものでした。
終演後は筒井さんが皆さんの質問に気さくに応えたり、楽器を触らせていただいたりしながらしばらく談笑。リクエストに応じて愛器の前で写真も撮らせていただきました。

大ホールでのコンサートとはまったく異なり、小さなカフェでクラヴィコードという楽器を存分にたのしませてもらう、まさに至福の時間。今週は仕事が忙しくお昼もろくに食べられないほど忙しかったのですが、このコンサートで心のそこから癒されました。主催者の皆さん、学下コーヒーの皆さん、筒井さん、ありがとうございました!


- 関連記事
-
-
下野 竜也/読響のチェロ協奏曲、時計(よみうり大手町ホール) 2015/09/18
-
地元で再び静寂に消え入るクラヴィコードに聴き入る 2015/09/13
-
デニス・ラッセル・デイヴィス/読響の惑星(みなとみらいホール) 2015/07/27
-
ロト/読響の十字架上のキリストの最後の7つの言葉(サントリーホール) 2015/07/02
-
茗荷谷のカフェでクラヴィコードの響きに耳を欹てる 2015/05/16
-
イェンセン/読響/シュタイアーのモーツァルト、ショスタコーヴィチ(サントリーホール) 2015/05/14
-
ジャン=クロード・ペヌティエの「十字架上のキリストの最後の七つの言葉」(ラ・フォル・ジュルネ) 2015/05/04
-
カンブルラン/読響のリーム、ブルックナー(サントリーホール) 2015/04/11
-
スクロヴァチェフスキ/読響のブルックナー&ベートーヴェン!(サントリーホール) 2014/10/10
-
コメントの投稿
ご来場ありがとうございました!
・・・それにしても、こちらの意図がばっちり伝わっていたということがわかり、こんなに嬉しいことはございません。
実はこのスタイルのクラヴィコードはハイドンにもどんぴしゃですので、どのように踏み込むか検討ちぅです(・o・ゞ
こちらのプログ記事(簡単ですが)にも、どうぞいらしてくださいませ〜m(._.)m
http://bergheil.air-nifty.com/blog/2015/05/vol2-3c0f.html
Re: ご来場ありがとうございました!
昨夜はバッハもモーツァルトも良かったんですが、特にパッヘルベル、フィッシャー、素晴らしかったです。ハイドンにも素晴らしい変奏曲やソナタがあるので、ハイドンを取り上げられる際には是非聴きにいきたいですね。それにしても、昨夜の学下コーヒーでの15人のコンサート、とてもいい企画です。クラヴィコードを理想的な環境で楽しめました。
また、クラヴィコードを実際に触る機会をいただきありがとうございました。鍵盤から伝わる弦の振動、実に新鮮でした。
筒井さんのブログも拝見してます。今後とも宜しくお願いいたします。
初めまして
クラヴィコードは非常に繊細な音を出す楽器で、私も前々から愛聴しております。
ホグウッドがクラヴィコードを弾いたモーツァルト・アルバムには、
「音量を上げ過ぎて、機構音やノイズを増幅しないように。クラヴィコードの楽音のみが聴こえる音量にするように」
などという注意書きが、大きな文字で書かれてあるほどですからね。
もしかしたら、この世で最も、弾き手にも聴き手にも繊細さを要求する楽器かもしれません。
そうした楽器ですから、筒井様のコンサートでの、15名限定というスタイルは、この楽器にこの上なく相応しいものであると思います。
クラシックコンサートというと、大勢で聴くものが主流であるわけですが、こうした寛いだスタイルの演奏会に、もっと増えてほしいと感じました。
ちなみに、私がクラヴィコードの音を好きになったキッカケは、『鍵盤楽器の歴史的名器』という、エラートのアルバムを聴いてからです。
かなりマイクを接近させた録音で、それにより、クラヴィコードのキャッチーな魅力が増幅されているように思えます。
このブログのおかげで、私はハイドンの魅力に気づくことができました。
これからもDaisy様の濃密な記事を、楽しみにしております。
Re: 初めまして
ブログ拝見しました。私の方はハイドンばかりですが、かなり広範囲にわたって、しかもかなり明確な視点での記事、なかなかどころか思い切り濃密ではありませんか。
ご指摘通りクラヴィコードは素晴らしいですね。繊細であるだけでなく非常に奥が深い楽器だと思います。15人という少人数で奏者の話を聞きながら、想像力をかきたてるようなか細い響きに耳を欹てることで、何かが見えて来るんですね。得難い体験でした。
鍵盤楽器の歴史的名器というアルバム聴いてみたくなりました。まだまだクラヴィコードは探求途上です。
今後とも是非宜しくお願いいたします。